「Shangri-La」桃井霞
《ようこそShangri‐Laへ! ここは選ばれた者だけが入れる理想郷。この扉を開けますか? YES/NO》
突然スマホの画面に現れた質問に、YESを選んだ。
この世のどこかに存在するShangri‐Laならば、叶うはずのない私の願いを叶えてくれるのだろうか。
光を求める影のように、永遠に届くことのない私の願いを。
① プロローグ
「Shangri‐Laへようこそ。あなたはこの楽園に選ばれました」
耳に響くというより、直接心に語りかけてくるような声。
暗闇に現れた光の粒の集合体は五人の門番となり、目の前に並んだ。
「ここはShangri‐La。不老不死の人々が住むという、地球に残された最後の楽園。この地では、脆い肉体も弱い魂も不要です。すべてを脱ぎ捨て、理想の魂と肉体を手に
入れるのです」
理想の魂と肉体を手に入れたら、この胸に渦巻く深い苦しみから解放されるのだろうか。
私は門番に促され、光あふれる地へと足を踏み入れた。
②Aさん(年齢不詳、性別X、美容家)
―――ここは、天国だろうか?
気がつけば、私は色鮮やかな花々が咲き乱れる広大な草原にいた。一面にかぐわしい香りが漂い、ここにいるだけで身も心も美しくなれそうだった。
美容家として活動して、二十年余り。
内側からあふれるみずみずしさや、はじける若々しさを携えた二十代と比べ、四〇代になってからはどれだけ生活を整え、体にいいものを食べても、忍び寄る老いには抗
えない。
美しくなければ私の人生は終わりだ。今後さらに加速していく「老い」のことを考えると気が狂いそうになる。美しさがあってこそ、心も満たされるというのに。
―――いつまでも若々しく、美しい肉体が欲しい。
強く願うと、"赤き者"がやってきて、私に手を差し伸べた。
その手を取ると、触れた手の先からぱりぱりと殻がむけるように私の皮膚がはがれ落ちていった。
驚いたことに、はがれ落ちた皮膚の下からは真っ白でみずみずしい肌が現れたのだ。
そうして体中の皮膚がすべてはがれ落ちると、生まれ変わったように全身が白く光り輝いていた。
鏡のように美しい湖面に自分の姿を映せば、誰よりも美しい人がそこに映っている。
―――これが、私?
なんということだろう。私は理想を絵にかいたような姿を手に入れたのだ。
新しく生まれ変わった身体で、踊るように回りながら喜んだ。
③Bさん(40代女性、ダンサー)
―――あの頃のように踊り、観客と一つになりたい。
華々しいステージでスポットライトを浴び、踊っていたあの頃。
心技体のすべてが研ぎ澄まされ、これ以上ない充実を感じて間もなく、肉体のピークは急速に過ぎ去っていった。
その先にはさらに深い表現の世界があっただろう。私はそれを見ぬまま、踊り手としての幕を閉じた。
―――いくつになっても衰えず、踊っていられる身体がほしい。
強く願うと、"赤き者"は私を古い神殿の広間へと導いた。
冷たい大理石の床を踏みしめ、そっと舞い始める。途端に、驚くほど鮮烈な感覚が全身を駆け巡った。
身体は羽のように軽く、手足は一寸の狂いもなく思い描いたとおりに動いた。驚くほど高く飛び上がったと思えば、一番美しいポーズでいつまでも静止できる。
私は時間を忘れ、ただ踊り続けた。
―――しかし、何かが足りない。
理想の肉体を手に入れたはずなのに、どれだけ踊っても心が満たされない。
私が求めるているのはただ美しく舞うだけではない。魂が震え、本能が叫び、己の全てを賭して表現する踊り。
それこそが、私の求める「踊り」なのだと。
④Cさん(30代女性、OL)
―――もう、何もかも疲れた。
愛する人には家族があった。
四年もの間、どれほど愛して尽くしても、彼が自分のものになることはなかった。
愛するだけで幸せ、そう思う時期もあった。しかし心の奥ではいつも行き場のない怒りと焦りがじりじりと胸を焦がし、嫉妬の嵐が吹き荒れていた。
私の心が幸せで満たされることはない。妬み、不安、不信、絶望、自己否定、無力感、考えうる負の感情をすべて消し去り、日々、穏やかな気持ちで暮らせたらどれほど楽
だろうか。
霧の立ち込める神秘的な森のふもとで、"白き者"が楽器を奏でている。金属のお椀のような楽器を叩くと、心地よい癒しの音色がした。
波のように届くその音を聞いていると、頭の中が空っぽになり、深い呼吸に意識が向いていく。
深い意識の底で、心の中に渦巻く黒々としたかたまりが少しずつ溶けていくのを感じていた。
⑤Dさん(70代男性、画家)
―――この世で描きたいものは、すべて描き尽くしたように思います。
年齢を重ねるにつれ、何を見ても感動しなくなりました。
若いころは、見知らぬ国や見たこともない人々に出会う度、全身が驚きと感動に包まれました。胸を突き上げるような興奮を絵の具に乗せて、キャンバスに描き出して
いったのです。
絵は、自分の心そのもの。
今の私は何事にも心を動かされず、心が死んでいるようなものですから、私が描く絵も当然死んだようなものになります。
だから、今は絵を描いていません。
こんな私が、再び描かずにはいられない何かに出会えるのでしょうか。風景でも生き物でも何でもいいのです。描きたいと思える強い衝動を感じたいのです。
強く願っていると、私は"白き者"に導かれ、信じられない光景を目にしました。
澄み切った空の下、緑の草原には色とりどりの花が咲き、森には荘厳な朝霧が立ち込め、谷を包んでいます。まさに理想郷というべき光景でした。
そして私は、そばに舞い降りた一羽の美しい鳥に目を奪われました。その体は水晶のように透き通っており、朝日を浴びて七色に反射していたのです。
―――今すぐ、この美しい鳥を描きたい。
心から待ち望んでいた衝動が、一瞬でよみがえりました。
赤き者がキャンバスと絵の具を差し出してくれ、私は一心不乱にその鳥を描き始めました。
⑥審判
各々がShangri‐Laで夢のような時間を過ごしていると、突如、四人は暗闇の中へと引きずり込まれた。
暗闇の中、一本のロウソクが黒いローブをまとった男を照らしていた。若さと老いが同居し、見る者によってその姿は異なるという不思議な男は、厳かに口を開いた。
「私はこの地の決裁者です。みなさま、いよいよ決断の時が来ました。
あなたは理想の肉体と魂を手に入れたので、このままShangri‐Laにとどまり、永遠に生き続けることができます。
もしあなたが生まれ変わりたければ、理想の肉体か魂のどちらかを得ることができます」
暗闇に、三つの選択肢が浮かび上がった。
① 理想の肉体と魂を得てShangri‐Laに残る
② 理想の肉体を得て生まれ変わる
③ 理想の魂を得て生まれ変わる
「あなたは、どれを選びますか」
何が正解なのだろうか?
それは自分にしかわからない。本当に求めるものは何か、自身に問うしかない。
すらりとした40代の女性が手を挙げた。
「私は理想の肉体を得て、わかったことがあります。どれだけ美しく踊ろうと、そこに魂がなければ人の心を揺さぶる踊りにはなりません。私はこれまで自分の魂をさら
け出すのが怖かったのかもしれません。心の弱い私は、理想の魂を得て生まれ変わります。そして、魂を表現する踊り手になりたいと思います」
女の瞳は輝き、これからもう一度始まる生への期待で満ち溢れていた。
「わかりました。あなたの願いをかなえましょう」
黒き者は持っていた杖を振りかざすと、光の粒が女の全身を包み込んだ。光が消えるとともに、女性の姿はなくなっていた。
続いて、背の高い中性的な人が手を挙げた。
「私は②を選ぶわ。生まれ変わっていつまでも美しい身体を手に入れたい。この地で永遠に美しくいることも考えたけれど、私は「不変」が欲しいわけではないの。私の
本当の理想は、ずっと恐れていた「老い」すら美しいと思える、変化そのものが美しいと思える存在になること。そしてそれを世界中に発信していきたい」
決裁者はうなずき、杖を掲げると、光の粒がその人を包み込んでいく。やがてその姿は消えていた。
次に手を挙げたのは30代の女性だった。
「私、はじめは不倫に疲れて、負の感情のない穏やかな心が欲しかった。でも、理想の魂を得て気が付いたんです。この魂には恋をしているときの胸の高鳴りも、締め付
けられるような胸の痛みも、愛に包まれた心地よい幸福感も感じない。いまはそれがとても恋しい。苦しくても全身で愛を感じていたあの感覚が欲しいんです。もしでき
るのなら、私は今の自分のまま帰りたい。そして次こそ信頼できる誰かとその感覚を共有したい」
決裁者はうなずき、杖を掲げて彼女を光の粒で包み込んだ。
長い静寂を経て、70代の物静かな老人が語りだした。
「みなさん、それぞれ旅立ったのですね。けれど私はこのままShangri‐Laに残ろうと思います。私はここで描きたいという衝動を思い出すことができました。ゆっくりと
時間をかけて、いろいろなものを描いていこうと思います」
門番が再びShangri‐Laの扉を開けると、まばゆい光が差し込んだ。
老人は目をすがめて光の中へと入っていった。
【エピローグ】
「美麗ちゃん、ミルクの時間だよ」
新米パパは嬉しそうに三か月の娘にミルクを与えている。
「うちの娘、とびきりの美人になるぞ。新生児室でも一番かわいかっただろう?」
「それを親バカっていうの。でも、顔は小さいし目はパッチリしているし、美麗っていう名前通り、可愛い子になりそうだよね」
夫婦がのぞき込むと、赤ん坊はミルクを飲みながら、笑顔になった。
そこに、インターホンが鳴る。
「あ、奈緒がきた。どうぞ、入って」
夫婦の家に、一人の妊婦が入ってきた。
「だいぶおなかが大きくなってきたね。予定日は来月だよね?」
「うん。女の子だけど胎動がすごくて。音楽に合わせてドンドンおなかを蹴ってくるの。ダンスでもやらせようかな」
「バレエはどう? 私も美麗にバレエを習わせようと思ってるの。美しい所作が身につくでしょ?」
「いいね。いっしょに習わせようか」
「それにしても、奈緒が幸せになってよかった。不倫男とすっぱり別れられてよかったね。そのあとすぐに今の旦那さんと出会えたし」
「うん。ある日を境に、憑き物が落ちたような感覚になって。そこから運気が好転したような気がするんだよね」
「へぇ」
二人が話している横で、テレビからは洋画家の訃報が報じられていた。
『先日、洋画家の黒田昌さんが自宅で亡くなっていたことがわかりました。78歳でした。関係者の話によると、自宅の椅子で眠るように亡くなっていたそうです……』
画家は、最後に描いたであろう絵を手にして亡くなっていた。
その絵には、見たこともないような美しい鳥の絵が描かれており、この作家の最高傑作として残るだろうと語られた。(了)